真夏の帰り道、アスファルトの上にゆらめく陽炎が好きだった。 手をのばせば今にも消えそうな歪んだ景色を見ていると、八月の高い高い空の青さとか忘れたことさえ忘れてしまったほのかな記憶______それらに対する慕情が胸を満たして苦しくなる。 届かない尊さ。私はそれを愛した。 聖と付き合っていく上でそれに近い感覚を初めて覚えたのもやはり真夏だったと思う。 蒸し暑い日の午後にベンチの上ですやすやと屈託なく眠りこけている聖。この猛暑の炎天下、よくもまぁ爆睡できるものだとあきれながら見ていた。聖はいつもあのベンチで同じように眠っていた。日向ぼっこする野良猫のようにも見えたし、行き場を無くした迷子が毛布にすがっているみたいにも見えた。あそこは彼女の聖域だったのだろう。仕事の用事で起こさなければならないとき、私は罪悪感で無性に胸を痛めたものだ。 しかし今さらになって思う。 あの時感じた胸の痛みは果たして彼女を眠りから覚ましてしまうことのみが原因だったんだろうか?むしろその心の咎は私自身の中に深く根ざしていたのではないか? 彼女を揺り起こすときいつもその安らかな寝顔にこっそり見とれた。この寝顔をいつまでも側で眺めていたいという欲求、安息なる眠りを守ってやらなければという責任感が私の中には確かにあった。そんな秘めた思いを抑えた後味の悪さ、それがあの胸のもやもやだったのではないだろうか。 曖昧だったあの気持ちに名前はつけられない。そんな日々ももうじき終わる。 聖のいた夏の庭も、ゆらめく陽炎も、全て封印して私は忘れてしまうのだろう。 そしてその届かない尊さにいつか胸を焦がす。何年後か何十年後、ふと思い出した蒸し暑い真夏の午後に。 カゲロウ (Side Y 前編) 聖からカゲロウと聞いたとき、私は「陽炎」と変換したので間髪いれず「見たことがある」と答えた。しかし話を聞いてみるとどうやら「蜻蛉」のことらしい。 「『陽炎』じゃなく『蜻蛉』ね。勘違いした。虫自体はみたことないけど、詩は好きだったわ。」 「詩?」 「誰だったかしら・・・・確か有名な詩人さんが書いてたと思うんだけど。お父さんとカゲロウを解剖してお腹の中の卵をみるやつ」 「なにそれ、気持ち悪い」 「違う、感動的な詩だったんだってば」 あれは誰の詩だったっけ、とても素敵な詩だったと思うんだけど。確か英語の題名だったと思う。はがゆいので思い出そうと必死になっていると聖に 「蓉子が一生懸命すぎてウケる」 と笑われた。悔しい。 思い出せないのがどうしても気持ち悪いので図書室に行って探して見ることにした。読んだことのある詩集をかたっぱしから開いて確かめてみたが載っていない。諦めて帰ろうと入り口につま先を向けた瞬間聖がドアを開けて入ってきた。本を読まない彼女を図書室で見かけるのは珍しい。聖はまっすぐ図書カウンターへ向かい、座っている子に何か話しかけた。短めのボブが似合う綺麗な女の子。どこかで見た覚えがあるな、と目を凝らしてみると生徒会選挙に立候補した二年生だと思い出した。ロサ・カニーナ。本名はたしか蟹名静といったか。彼女はカウンターから出ていき、見えなくなったと思ったらすぐに戻ってきた。 「・・・・あった。この『I was born』って詩です」 「おーサンキュ。読んでみるよ」 「貴女が本をお借りになるなんて珍しいですね」 「ちょっと、気になってね」 どうやら聖は私が教えた詩を読んでみようというつもりらしい。自分の頬がゆるむのを感じた。声をかけようとしたとき、満面の笑みでロサ・カニーナがこう言った。 「私も好きです、その詩」 心臓のあたりにかすかな痛みが走る。呼びかけようとして開きかけた口は中途半端に開いたまま硬直し、また閉じた。 聖は彼女に手を振って図書室を出て行った。彼女も手を振った。長すぎるほどその場で、にこにこしながら手を振っていた。 胸の中に暗いもやが渦巻いている。私は声をかけきれなかったことを後悔した。聖に声をかけようと歩み寄る真夏の庭の、むせかえる草のにおいを思い出した。 家に帰って一番にPCの電源を入れた。ブラウザを開いて「I was born カゲロウ 詩」で検索してみる。あっけなくお目当ての詩は見つかった。 「蜻蛉と言う虫はね。 生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね」 「友人にその話をしたら 或日 これが蜻蛉の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。 説明によると 口はまったく退化していて食物を摂るに適しない。 胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。」 聖のようだな、と思った。 髪を切る前の彼女。あの頃の聖には生々しい生のイメージがすっぽりと抜けていた。存在が周りの空間からぽっかりと浮き出ていてひどくこっけいな感じがしたものだ。命の匂いがしない。そんな自分と周りのとの隔絶を聖自身一番感じていたのだろう、どこにいても居心地が悪そうにしていた。教室の中、薔薇の館、私の目の前にいるときでさえ。私はそんな彼女をずっと見ていた。目が離せなかった。同情だったのかもしれない。優等生としての義務感だったのかもしれない。でも変わり始めた彼女に未だ私の瞳はとらわれ続けている。 次に、昔のリリアン瓦版を引っ張りだした。 「白薔薇さまの妹候補は!?白薔薇のつぼみ予想投票」 ひどい見出しだ。志摩子が聖の妹になるまで新聞部ではこのネタでよく盛り上がっていた。蟹名静の名前もきちんと載っている・・・・妹候補一位として。こんな紙きれ一枚、別にどうでもよかった。でも今日の図書館で見たあの子の笑顔になぜか私は打ちのめされている。そんな自分がひどく情けなかった。 自分は一体何がしたいんだろう。何が欲しいんだろう。わからない。 翌日聖は薔薇の館で私に会うなり声をかけてきた。詩が気に入ったと言う。 「あら、読んだのわざわざ。でしょう、私も結構感動したんだから」 知っているくせに―――――心の中で誰かが毒づいた。昨晩から引きずっている胸の中のもやもやがますます濃くなる。 「なにちょっと、私も混ぜてよ」 おもしろそうな話題だと思ったのか江利子が首を突っ込んできた。 「あぁあの詩か、私も読んだことある。一年の時の古賀先生がクラス全員に詩集をプレゼントしたことがあったの。先生は嫌いだったけど詩集は好きだったわ」 その一言に思わず笑う。江利子がいてくれて助かった。私と聖の二人きりになることほど今の私にとって気まずいことはない。 「でもカゲロウってあんなに薄幸なイメージのくせに、えらく残酷よね」 「なんで?」 「だって、幼虫の時ってあれよ・・・・アリジゴク」 「うそ」 「本当よ。たくさんのアリを穴の中に落としこんで貪って・・・・それで成虫になって三日で死んじゃうんだから。因果応報かしら?」 その日、聖はそれ以上カゲロウについて触れようとはしなかった。 帰宅しても胸の中がまだすっきりしない。だんだんむしゃくしゃしてきた。側にあったクッションを乱暴につかんで放り投げる。すると大人気ない自分にまた腹が立ってくる。えいっ、と力を入れてベッドから体を引き離す。気分転換に散歩に行こう。玄関に走って赤いスニーカーに足をつっこんだ。 神社へ続く長い階段を上りつづける。勉強に煮詰まったときここの神社でお参りするのが最近の私のストレス解消法になりつつあった。小高い境内からのぞむ町と夕陽は本当に綺麗で、今はちょうど時間的にベストだ。 息を切らせて最後の一段を踏み込む。ようやく頭の中がからっぽになった気がした。やっぱり来てよかった、たまには体も動かさないといけない・・・などと思いつつ手水舎へ向かう。そこでやっと水盤のわきにしゃがみこむ人影に気づいた。今一番会いたくない人物だと悟った瞬間よほど逃げ出そうかと思ったが、彼女の顔色は夕焼けの紅い光の中でもあからさまに真っ青で、思わず声をかけてしまったのだ。 「聖、どうしたの?具合悪い?」 彼女の肩はびくりと上下した。何かにおびえているみたいに見えた。向けられた瞳は丸く見開かれていている。 「どうしてこんなところに・・・・蓉子がいるの?」 「それはこっちが聞きたいわよ」 駆け寄って顔をのぞいたのは自分の方なのに聖のアップに思わずどきりとした。 「顔色悪いわよ。大丈夫?」 手を差し伸べると 「何でもないってば」 と言ってぱしんと手をはたかれた。懐かしいやりとり。久々だ、こんなに動揺したこの子を見るのは。少し不安になるが、露骨に心配すると聖をかえっていらつかせてしまうことを経験上私は心得ていたので、立ち上がり会話を変える。 「杓子、貸してくれる?」 憮然とした聖が杓子を差し出す。お参りのために手を清め、口に杓子を運んだ。 「喉渇くのよね。ここの神社の階段て結構キツいでしょ。登るのにいつも息がきれちゃう」 「『いつも』って・・・頻繁に来てるの?」 「ここの神社、学業成就の神様が祭ってあるのよ。これだけさびれた神社じゃあ効能のほどは怪しいけど・・・・。受験勉強の息抜きに、散歩がてらたまーに、ね」 今日の散歩は勉強の息抜きではなくあなたのせいだと。そんなこと、言わない。 「蓉子なら受かるよ。こんなオンボロ神社に頼んなくても」 すねたと思ったらいきなり素直にぽんと言葉を投げる子だ。きっとこういうところが聖の魅力に違いない。もっと自覚しろよと思う。ずるい。 「そう?ありがとう、聖に言われたらなんとなくそんな気がしてくるわ」 笑顔でさらりとかわした、つもりだ。所在なく感じた私は思い切って聖の隣にしゃがみこむ。 「ジーパン、汚れるよ」 「気にしないわ」 そのままお互い黙り込んだ。聖はうつむいて具合が悪そうにしている。私は不安になってきた。すぐ隣にある聖の手を握り締めてやりたくなる。 ためらい。呼吸を整え。やはり怖いと思う。そしてついに手を伸ばす。 握り締めた聖の手はひんやりと冷たかった。少しでもあたためたくてぎゅっと力をこめる。 ああ、この子のか細いこの手をずっと私の手であたため続けてやれたら。側にいて、お節介だとあきれられながら、ずっと。 握った手を聖は振りほどこうとしない。かすかに安堵する。 「動ける?」 「動きたくない。吐きそう」 聖の顔は本当に辛そうで、今にも泣き出しそうに見えた。こんなに不安定な女の子が聖の中にまだいたのかと少し意外に思う。志摩子を妹に迎えてからはこんな顔見せなかった。ガラス細工。先代の言葉を思い出す。 「アリジゴクを観たんだ・・・・・」 聖が呟いた。いきなりのことで私は混乱する。 「落ちていくアリから目が離せなかった」 一人ごちる聖の視点は遠かった。誰も見ていない。私に向けた言葉でさえない。手を握っているのに聖がここにいることさえ現実じゃない気がしてきた。 ああ、またこの感覚だ。届かない。 一体彼女は何を見て、何に動揺しているのか。 私にはわからない。もとより私には自分の気持ちさえよくわからないのだから。 繋がれた手をふりほどくタイミングさえつかめずに、ただ聖を見つめるしかなかった。 ←カゲロウ Side S 前編に戻る |
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||