本棚の整理をした。 昔のアルバムや漫画本が出てくるとつい読んでしまうので片付けは進まず、綺麗に整理し終わったときにはとっぷり日が暮れてしまっていた。 いらない本を紐でくくりながらふと埃まみれの昆虫図鑑を開いてみる。パラパラとページをめくっていくと一枚のページに大きなマルがでかでかとつけられていた。 「かげろうはみじかい命でたまごをうむために成虫になります」 ウスバカゲロウ・・・・。 なんで私はこの虫を気にいってたんだっけ? カゲロウ(side S 前編) 「蓉子、カゲロウって見たことある?」 「カゲロウ!?」 書き物をする手を止めて彼女は顔を上げた。 「あるけど・・・。なんで?」 昨日出てきた昆虫図鑑の話をすると蓉子は 「『陽炎』じゃなく『蜻蛉』ね。勘違いした・・・。虫自体はみたことないけど、詩は好きだったわ。」 と言う。 「詩?」 「誰だったかしら・・・・確か有名な詩人さんが書いてたと思うんだけど。お父さんとカゲロウを解剖してお腹の中の卵をみるやつ」 「なにそれ、気持ち悪い」 「違う、感動的な詩だったんだってば」 蓉子は思い出せないのが気持ち悪いのかその後もずっとぶつぶつ言っていた。そんな彼女を見ながら、こんな会話を出来るのも残り数日かと気づく。カレンダーはいつの間にか一月のページが破られていた。 「ああ、吉野弘さんの詩ですね」 図書室にいた静に聞いてみるとあっさり判明。彼女は素早く一冊の本を棚から引っ張り出してきてくれた。 「この本の『I was born』って詩です」 「おーサンキュ。読んでみるよ」 「貴女が本をお借りになるなんて珍しいですね」 「ちょっと、気になってね」 静はそれ以上聞かずにただ一言「私も好きです、その詩」とだけ告げた。 その晩、借りた本を読んでみた。詩を読むなんてガラにもないと最初は鼻しらむ思いだったが、いつの間にか夢中でページを繰っていた。 「I was born」は詩というよりも小説の一部分のようで変わった感じだ。 「蜻蛉と言う虫はね。 生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね」 人間の命の誕生を歌った叙情的で良い詩といえるのだが、私にしてみたら詩の内容よりもカゲロウの描写部分、その儚げなイメージのほうが強烈だった。 「友人にその話をしたら 或日 これが蜻蛉の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。 説明によると 口はまったく退化していて食物を摂るに適しない。 胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。 見ると その通りなんだ。 ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりとした胸の方にまで及んでいる。 それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげてるように見えるのだ。 淋しい 光の粒々だったね。 私が友人の方を振り向いて <光>というと 彼も肯いて答えた。 <せつなげだね>」 虫の死体を見たぐらいでセンチメンタルになるなんて人間の持つ感受性のほうがよほどせつないじゃないか、とひねくれた私は思ったが。 カゲロウ。こんな虫ケラになんで私は憧れたんだろう。 すぐに消えてしまうものは、どうしてこんなにも心を捕らえて放さないのか。 儚いものはとても綺麗だけど、失ったときの悲しみを私はよく知っている。おととしの12月の晩から。 翌日、薔薇の館には久々に三薔薇(選挙が終わった今、旧三薔薇というべきか)が揃っていた。 「蓉子ー。あれさ、いい詩だったよ」 「あら、読んだのわざわざ。でしょう、私も結構感動したんだから」 「なにちょっと、私も混ぜてよ」 江利子が口をはさむ。 「あぁあの詩か、私も読んだことある。一年の時の古賀先生がクラス全員に詩集をプレゼントしたことがあったの。先生は嫌いだったけど詩集は好きだったわ」 苦笑する私と蓉子。 「でもカゲロウってあんなに薄幸なイメージのくせに、えらく残酷よね」 「なんで?」 「だって、幼虫の時ってあれよ・・・・アリジゴク」 「うそ」 「本当よ。たくさんのアリを穴の中に落としこんで貪って・・・・それで成虫になって三日で死んじゃうんだから。因果応報かしら?」 江利子のその言葉に、何故かドキリとした。 その日の夕方、私は家からほど近い神社の境内にいた。小さい頃アリジゴクをこの場所で観ていたこと思い出したのだ。薄暗い神社の境内は陰鬱ながら、子供を惹き付ける不思議な魅力がある。誰もいないこの場所を幼い私は愛した。 やしろの裏に回って地面に目を凝らす。スリバチ状の小さな巣がぽつん、ぽつんと散在している。そっとしゃがみこんで巣の中央をじっと睨みつける。しばらくすると一匹のアリが忙しそうにモソモソと巣の側を行き過ぎていった。 このアリが穴の中に落ちるのを観たい_________。 残酷な好奇心を抑えきれず、側にあった小さな枯れ枝を手に取りアリを巣穴へ押しやった。アリは急斜面を転げ落ちてゆく。そのとき、穴の中央からアリジゴクがサッと飛び出した。グロテスクな体つきと頭に冠する巨大なハサミ。異様な形態は観ている私の背筋を寒くさせた。たかが数センチの虫のクセに。そのバケモノは必死で巣の上へ這い上がろうともがくアリを素早く捕まえ、頭からかぶりつく。その瞬間口の中が酸っぱくなって私はやしろの前にある手水舎へと走った。 口の中を繰り返しゆすぐ。それから柄杓に三杯ほど水を飲み干した。 私は思い出してしまったのだ、昔たくさんのアリをアリジゴクに突き落としたことを。じめじめと湿り気を帯びた境内で餌になるアリを一日中観察していた幼い自分。怖いもの観たさが過ぎた暗い遊びは、無邪気で残忍な子ども心を満足させたのだろうか。 「因果応報かしら?」 ふと江利子の言葉が頭をよぎる。だったら私は罰を受けているのかもしれない。それは栞を失ったことだったのか?いや、今この時でさえ、私は責め苦を受けている最中なのかもしれない。気づいてないだけで、それはずっと進行していたことだったのかも。 「聖、どうしたの?具合悪い?」 唐突に投げかけられた声に私は震え上がった。悪戯を見つかった子どものように見えたと思う。 「どうしてこんなところに・・・・蓉子がいるの?」 「それはこっちが聞きたいわよ」 蓉子は水盤のわきにしゃがみこんでいる私の側に近づいてきた。膝を折って私の顔を覗き込む。 「顔色悪いわよ。大丈夫?」 「何でもないってば」 イラついた声で差し伸べられた手を振り払った。ああどうしていつもこうなのだろう。彼女が差し出してくれた好意を素直に受け取るのは私にはとても難しい。気遣ってくれたのが志摩子や祐巳ちゃんなら、先輩らしくいくらか気の利いた台詞でも返せたろうに。 「杓子、貸してくれる?」 私は握っていた杓子の柄をぶっきらぼうに蓉子に向けた。彼女はにこりと笑って杓子を受け取り、水を丁寧にすくって手を軽くゆすいだあと口に含んだ。あごの先を雫がつたってポタリポタリ、下へ落ちる。濡れた顎先を見つめながら急に強烈な喉の渇きを覚えた。 「喉渇くのよね。ここの神社の階段て結構キツいでしょ。登るのにいつも息がきれちゃう」 「『いつも』って・・・頻繁に来てるの?」 「ここの神社、学業成就の神様が祭ってあるのよ。これだけさびれた神社じゃあ効き目のほどは怪しいけど・・・・。受験勉強の息抜きに、散歩がてらたまーに、ね」 蓉子はもうすぐ他大学を受験する。ちょうどバレンタインの日だと言っていたっけ。 「蓉子なら受かるよ。こんなオンボロ神社に頼んなくても」 「そう?ありがとう、聖に言われたらなんとなくそんな気がしてくるわ」 その瞬間、私はひどく寂しくなった。もうすぐ彼女と決別しなければならない。いや、初めから人間なんてみな一人なのだから、決別もクソもないけれど。それでもこうして毎日当たり前のように会話をしたり彼女の好意をわずらわしく思ったり、そういうことが今後一切なくなるんだなぁと思う。たまに会ってお互いの生活を報告したり遊びに出かけたりしても、それは全くの非日常であって、日々の過程に組み込まれた当たり前で凡庸な、日常としての私たちはすっぽりといなくなってしまう。学校の中のどこにも。 来るべき4月をこれほど疎ましく思ったことがかつてあったろうか?今までに体験したことのないこの寂寥感は一体なんだ?二年前の自分が見たら、感傷に浸る自分を指差して腹抱えながら笑うに違いない。 蓉子は隣に座った。 「ジーパン、汚れるよ」 「気にしないわ」 彼女の顔がすぐ隣にある。目があうと泣き出してしまいそうで怖かったので、私はずっとうつむいていた。蓉子には私が苦しんでいるように見えたのか、心配そうにこちらをうかがっている。 蓉子がぎゅっ、と私の手を握った。 「動ける?」 「動きたくない。吐きそう」 嘘ではない。本当に体の奥から今にも「さびしい」の一言が口をついて出てしまいそうで怯えていた。でも、私は決して口にしない。それは私と蓉子の暗黙のルールであり、私自身のプライドであった。 蓉子の手にますます力がこめられた。触れているのはほんの一部分なのに、彼女の手のぬくみに体中の神経が集中した。 ああどうしよう。今私は本当に取り返しのつかないことに気づいてしまった。 すでに二人はこの繋がった手を放さなければならない季節の前にいるというのに。 私はいよいよ口を開いた。 「アリジゴクを観たんだ・・・・・」 蓉子が首をかしげる。 「落ちていくアリから目が離せなかった」 穴の底へみるみる間に堕ちていく、あの哀れなアリは私ではなかったか? 江利子は言った。 「たくさんのアリを穴の中に落としこんで貪って・・・・それで成虫になって三日で死んじゃうんだから」 残酷なアリジゴクは私か、それとも君か? 「因果応報かしら?」 なるほど。それならば私への報いはどうやら、現在進行中らしかった。 |
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