人が食物を摂取するさまを見るのはなんだか生々しい。
ほおばってかみくだいてのみこんで。
くちゃくちゃもぐもぐずるずるごくん。
黙々とそしゃくするあごを見つめながら、この人は生きているんだなぁと当たり前のことを実感したりする。

 ひとつとってはパリパリもぐもぐ。またひとつとってパリパリ。電車の中でスナック菓子を延々と食べ続ける女の子を見ながら
「生きてるって、なんだか気持ち悪いな」
と思った。


天国よりも野蛮


 「ほら、食べるってのは生きてるってことだからさ。そのリアルさに打ちのめされちゃうんだよね。どんなに着飾った、綺麗な顔した人でも食って飲み込んで出す、みたいな人間の生命活動の当たり前の迫力とかパワーがあって、自分が弱ってて頼りないときなんかにそれを見るともうなんか愕然としちゃうんだ」
 電車の中で私が感じた嫌悪感を告げると聖はそう言った。パスタを半分口に含みながらなのでフガフガして聞き取りにくい。
「弱ってて頼りない?」
「いや、心当たりがないなら別に。あくまで私の主観だから」
口の中のパスタをえんげする喉が波打つように動いている。聖の喉元をぼんやり眺めつつ「あ、また生きてるって思った。」と自分の中で呟いた。
「イタリア人とかさ、すごかったよ。パスタ超食う。モリモリ食う」
「イタリア?ああこの間旅行ってたね」
「そうそう。んでワインも飲む。超ガブガブ飲む。見ててすげー気持ちいいの。めっちゃめちゃ乱暴に飲み食いするんだけど、全然無駄に食物摂ってる気がしないのね。がつがつ食ってんのに妙にじっくり味わってるような感じ。あれは見ててなんかおもしろかった。きっと、おいしいものを食べたり飲んだりすることをきっちり楽しんでる人達だから、そういうのが見てる人にも伝わるんじゃない」
なるほどそういうものか、とフライドポテトをつまんで口に放る。くにゃ、としなびたポテトの触感。
「まぁこんなこと言ったら蓉子はヒいちゃうかもしんないけどさ」
聖はフォークについたクリームをなめながら言った。
「食べてる最中の人間って妙にそそるんだよな」
またこいつはリアクションに困ることを言う。私は黙ってポテトをもう一口食べた。

 喫茶店を出た後に携帯をチェックすると「着信あり 一件」の文字が見えた。メッセージが残されているのを確認し、聞かずに「全件削除」のボタンを押す。

 「自分が弱ってて頼りないときなんかにそれを見るともうなんか愕然としちゃうんだ」
聖に言われたことが心にもやもやと消えない。見透かされたようで、その日一日私はずっと恥ずかしさで悶々としていた。私は弱ってなんかない、でも疲れていたのは確かだ。ここ最近忙しくなった講義とアルバイト。
 そして、全然諦めてくれる見込みのない、好きでもない男の子の強引な誘いと。


 友人から頼まれて大学の学祭実行委員に加わることになった私は高校の頃から進歩していないなぁと思う。
 彼と知り合ったのは友人に誘われた学祭実行委員の飲み会だった。仕事のこともあるしメアドの交換をしたのだが、ことあるごとにメールと電話をしてきた。たいして内容もないことばかり。
彼のことは嫌いじゃない。なのにわかりやすい笑顔で声をかけられたり、着信が来るたび無性にイライラした。
「生理的に受け付けないタイプなのかもね」
友人に笑われたが、そうではないと思う。確かに気安いところはあるけれど、私が見る限り彼はそれなりに誠実でおもしろくて、ハンサムだから。じゃあなにがお前をいらだたせるのかと言われると、たぶん、しょうもない嫉妬。
 そう、私は彼をねたんでいる。ストレートに好きな相手に好きだと言える、彼のその性格と境遇を。
 心の底で憎らしいほどうらやんでる自分に気づいたとき、私は自分を生まれて初めて、かわいそうな女だと思った。


 考えてみれば私は聖の家の場所さえ知らなかったんだ。
 もちろん入ったことなんて一度も無かった_______今日までは。慣れない玄関でブーツを脱ぐと他人の家のにおいがしてなんだか緊張する。
「適当に荷物置いちゃって。スーパーの袋からナマモノだけ出しちゃって、冷蔵庫入れるから」
聖は勝手知ったる我が家でテキパキと冷凍室に、さっきお店で購入した100グラム148円の豚ロース切り落としをつっこんでいる。
「江利子から連絡きた?」
「まだ。さっき電話したけど繋がらない」
「デコめ。最近約束にルーズになりつつあるな」
両親の留守を利用して、聖の家で女三人お泊り会なんて今日が初めてだけど、確かにこの間の喫茶店会議も江利子は直前ですっぽかした。単に大学が忙しいのか、クマの彼氏をまだおっかけているのか。
 灰色のトレーナーに黒のジャージ。すっかり部屋着に着替えた聖は腕まくりをしながら
「もう腹減った!先に料理作っとこう。食べ終えてたって文句は言わないでしょ」
と言ってまな板をシンクの上にごとん、と置いた。
「サラダ用のきゅうり切って」
言われるままに私はまな板の上でごつごつときゅうりと切り始める。聖は私の手元と顔をかわるがわる見つめていて、なんだか緊張した。手つきがたどたどしくなる。
「・・・・・・・もしかして、蓉子って意外と料理しない人?」
「人の家の包丁だから慣れなくて怖いだけよ」
聖は笑いをかみ殺しながら、スパゲティの麺をたっぷり三束つかんでぐらぐらと煮立った鍋に放る。
その時私の携帯が鳴った。
「江利子?遅いよ、もう料理作り始めてる」
「ごめん、蓉子、私遅れるわ。知り合いの先生に急にアルバイト頼まれちゃって。10時前には着けると思うんだけど」
江利子はごめんごめんと言い残しあっさり電話を切った。
「えーパスタもう三人分ゆでちゃってるつーの。早く電話しろあのデコ!」
聖は冷蔵庫を開けて唸りながら首をかしげている。
「じゃあ江利子用にサラダと麺、マヨネーズであえてサラダパスタ作ろう。多少伸びても気にならないっしょ。うちらはきっかりおいしいクリームパスタを食べるのだ」
そう言って聖はフライパンの上の乳白色のソースをかきまぜる。とろとろとした濃厚なホワイトクリームのにおいは私の胃袋をきゅうっと収縮させた。

 コーンとマッシュルームのたっぷり入ったクリームパスタと、かぼちゃのポタージュと、きゅうりとレタスとトマトのサラダがテーブルに並んだ。見栄えもなかなかのもので、心の中で「これなら料理本に写真載ってもOKだな」とこっそり思うくらい。いや、載る訳ないけど。
 聖がグラスを二つ持ってきた。手にはロゼワインのボトルが握られている。
「イタリアで買ってきちゃった」
とにこにこしている。とくとくとく、と淡いピンクの液体が注がれ始めるとあたりの空間にアルコールの空気が充満していくのがわかった。
「いただきます」
「いただきます」
フォークを器用に使って麺をゆるいソースにからめる。チーズの匂いが食欲をそそる。口に入れると嫌味すぎないクリームの味が広がった。
「おいしい」
「うん、初めてにしてはうまくできたかな」
「初めて?初めて作ったの、これ」
「蓉子とこの間ご飯食べに行ったときのパスタ屋さんの味思い出しながら作ったんだけど。やっぱり少し違うね。生クリーム・・・・いや、チーズのせいかなぁ」
聖は確かめるように真剣な顔でゆっくりじっくりとパスタをすすっている。
「意外だわ」
「なにが」
「あなたが料理上手だってこと」
聖は得意そうに微笑んだ。
「うち、親がいないことが結構あってさ、おそうざいばっかだと飽きてくるんだよね」
親がいない______聖の家のことは長い付き合いの中でなんとなくわかっていたけど、改めて本人が言うとなんだかどきりとする。あまりにもあっけらかんと言うので、気にしているわけではなさそうだけど。
「ムカつくこととかあるとさ、高級食材どっちゃり買って来て鍋にガーッってつっこんでグツグツ煮込んでたらふく食べんの。んでお酒飲んで寝ちゃう。翌日になると全部すっからかんだよ」
とケタケタ笑う。
 あれ、いつからこの子はこんなに強くなったんだっけ。私は自分の知らない聖が育ち始めてることに気づいてしまう。途端、嬉しいような、寂しいような、おぼつかない気持ちになる。ああ、もう私たちは大学生になって少しだけ、ほんの少しだけ大人に近づいてしまっているんだなぁ、毎日会わないうちに目の前のガラス細工が磨き澄まされていくほどには。
 ロゼのワインなんてほとんど飲んだことはなかったけれど、ミディアムボディのイタリア産ワインはすっきりとしていて飲みやすく、アルコールが心地よく私の体を循環し始めた。パスタを食べ終えてワインを飲みながら聖とくだらない話をしながら笑う。いつもより自分の笑い声が1オクターブくらい高くて、なんだか自分じゃない人が口と脳みそを勝手に使ってべらべらしゃべってるみたいだ。


 目を開けると決定的な違和感。見知らぬ天井。
シャンデリアを模した洋風の照明の電球が六個。一個はチカチカと切れかけている。
 体を起こすと毛布が肩から落ちた。ソファの上で眠ってしまっていたらしく、首が痛い。
 あたりを見回すと、隣のダイニングルームで電気もつけず聖が椅子にまたがっていた。林檎の皮をナイフで器用に剥いている。
「風呂沸いてるよ。江利子来る前に入っちゃえば」
私の視線に気づいた聖は林檎から顔も上げずにそう言った。
 言われたとおり体を動かそうとするが、ひどくだるい。まだワインが体の中に残っているのか、動く気がまるでしない。頭がぼんやりする。しょぼしょぼする目玉で、薄暗いダイニングで黙々と林檎の皮むきをする聖を見つめる。
 甘いにおいがする。シャンプーの香り。濡れた髪の聖が犯人だ。いいにおいだな、と思う。
しんとした静寂の中、聖のナイフが立てるシャリシャリとした音だけが繰り返し聞こえる。
真っ赤な皮は長く細く、林檎から垂れ下がっている。時々ブツンと切れて、また始まる。
「蓉子、あまり酒強くないんだね。初めて知った」
そう言いながらも、聖はこちらをちらりとも見ない。まだ手元の林檎を見つめている。形のいいくちびるをきゅっと結んで、なんだかやけに真面目な顔になっていた。

 ______あの口にキスしてやろうか。どんな顔して私を見るだろう。

 ふといたずら心が湧き上がった。びっくりして目を丸くする聖を想像する。
 聖はそんなことちっとも知らずに相変わらず林檎と格闘していた。
 こっち向け、こっち向け、こっち向け・・・・・・・・。
 その瞬間、聖がガタンと立ち上がった。ビクリとしたのは私のほう。聖はキッチンの流し場から皿を一枚取ってきて林檎をその上で切り分けた。サクリと林檎を真二つにした瞬間甘い蜜の匂いが広がる。たったいま剥かれたばかりの新鮮な林檎は、果汁に濡れてツヤツヤと光っている。
「食べない?」
「いらないわ」
私は毛布を首までかぶって聖から目を逸らした。
「疲れてるときは、果物がいいって言うけど」
のんきにポリポリ林檎を噛み砕く音が、無性に私の感にさわった。
「疲れてなんか、ない」
「そう?」
私は口をつぐんだ。訳もわからず涙目になってきて、言葉にすると、途端にタガが外れてしまいそうな気がして怖くなる。
「本当は、ちょっと疲れてた。最近訳わかんなくなってた」
「どうしたの」
聖はようやく、私の顔を見た。
「・・・・・・・・・・・・・告白されたの、友達に」
毛布をぎゅっと握り締める。聖のナイフはもう音を立てないから、二人の居る部屋の沈黙が重苦しくて重苦しくて叫び出しそうになる。

 「へぇ・・・よかったじゃん」

 その途端、私の顔はカッと熱を帯びた。煙が出そうだった。もう死んでしまいたい_____そう思うくらい、猛烈に恥ずかしさがこみあげる。
 私は聖に一体何を期待していたんだろう?
 聖の返答は正しいものだった。何も間違ってはいない。
 でも、よかったねの一言に絶望してる自分がいる。
 私は聖の顔がゆがんで、懇願してくれることを祈っていた。
 そんな奴やめときなよって説得してほしかった。
 心のどこかでずっとそれを期待してしまっていた。そんなこと、聖がするわけないとわかってたのに。
 何を夢見ていたんだろう。恥ずかしい自分。どうしようもない自分。私は本当に馬鹿だ、本当に。
 ああ、何を期待していたんだか!自分が恥ずかしくて腹が立って情けなかった。鼻の奥がツンとして泣きたくなったが、何か言わなくちゃ何か言わなくちゃ、そう思って適当にまくしてる。
「でも、その人が、ちょっと、強引でさ。困ってるのよね。いい人なんだけど。いい人、なんだけど________」
私が好きなのは彼じゃない。
「お風呂入ってくるわ。早くしないと江利子来ちゃうし」
慌てて席を立った。もう惨めな自分をこれ以上さらしたくない。
 林檎をかじる音が後ろでまだシャリシャリと聞こえている。聖の持っていた林檎の真っ赤な色がなぜかまぶたの裏に焼きついて離れなかった。


 ぐるぐるといろんなことを考えていたらすっかり長風呂してしまった。頭の芯がぼんやりする。私はリビングで聖と顔を合わせるのが嫌で、借りたパジャマにだらだらと袖を通した後も洗面台の前でほんのり赤らんでいる自分の顔を見ながら立ち尽くしていた。
 いつもと変わらない自分の顔がこちらを冷たく見つめ返している。
 あの子の髪と同じシャンプーのにおいに包まれていることがひどく胸を痛めた。
 その時、ピンポンとチャイムの音が聞こえた。
 私が玄関に向かうと聖はもう玄関に出て荷物をいっぱい抱えた江利子を手伝っている。
「遅くなってごめんなさい。先生達の会議の手伝いやらされちゃったのよ」
「なにこの荷物?」
「なにってお酒よ、お酒。飲むに決まってんでしょ。夜はこれからなんだから」
江利子は喜々としてリビングに入っていく。
 机の上に三人分のグラスを注ぐと江利子が「久々の三薔薇に乾杯!」と叫んだ。
「前はティーカップに紅茶だったのに、今じゃグラスにビールか。とても祐巳ちゃん達には見せらんないね」
聖の鋭い指摘に三人そろってふきだした。私はグラスをちびちびと傾けながら聖のほうをちらりと盗み見る。彼女は携帯をいじりながら、また林檎をかじっていた。
江利子が三杯目のビールを飲み干して、聖の顔を覗き込む。
「なんでさっきから林檎ばっかりかじってんのよ、林檎ダイエット?」
「親戚から林檎送られてきてさ、たくさんあるから頑張って食べてるんだよね」
「あ、じゃあ私も食べたい。聖、剥いてきて」
「はいはい」
聖は手の中の携帯をパタンと閉じた。その瞬間私の携帯が鳴った。またあの男の子からだろうか。聖と江利子に気づかれないようにそっと携帯を開く。だが、ディスプレイの文字を見て私は軽く混乱した。
 「佐藤 聖」_______メールの差出人にはそう書かれている。

 「告白された子にはソファで眠ってる間にキスされちゃったりしないように」

 聖を見た。林檎を手に取った聖はこちらに気がつくと赤い林檎にそっと口づけた。挑発的な不埒さを浮かべて不敵に微笑む。
「ねぇ蓉子」
私の名を呼ぶ声はいつもよりほのかに甘い。
「蓉子も林檎・・・・食べたくない?」
体温が上昇し耳の奥で鼓動が響く。のぼせたせいだと言い聞かせて
「食べるわ」
と答えた。
 
 罪の果実をかじる聖はなんだかひどく野蛮。でも私の心臓のリズムを自由に操れるのは、もうまぎれもなく、そんな彼女だけなのだった。



 〜了〜

BGM
中谷美紀「天国より野蛮〜WILDER THAN HEAVEN〜」


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