あの時、キスしてたら何か変わったんだろうか?
わからない。今となっては、もう。
そんなこと考えるのさえこの胸を苦しくさせるんだ。
確かな甘さを伴った、泣き出したくなるようななつかしさが混じった痛覚。

曇り空の下、降りだしそうな湿った空気を嗅ぐたびに、あなたの濡れた髪を思い出すよ。



五月雨の記憶



三度目のドアチャイムで耐え切れず玄関を開けるとずぶぬれの蓉子が立っていた。
「・・・・どしたの」
「あなたこそ。居留守使っておいて」


貸したスウェットは少し大きかったようで、部屋に戻ると彼女は袖口をひとつ捲くっていた。ベッドの上で寒そうに爪先を丸めている。
一階から持ってきた新しいタオルとドライヤーを蓉子の横に置く。
「雨、やみそうにないわね」
窓を見つめて蓉子が言う。遠くを見る横顔は不安そうだ。
「あと少ししたら帰れるよ。どうせ、通り雨だ」
ポットを傾けてコーヒーをマグカップにコポコポと注ぎこむ。白い湯気とともにかぐわしい香りがたゆたう。
「それとも、そんなに帰りたい?」
「聖は意地悪ね」
「わかってるよ」
私のマグカップには何も入れず。蓉子のぶんはミルクを多めに。黒い液体にマーブル模様の白が溶ける。
「聞かないんだ?仮病の理由は」
「もう慣れたわ」
微笑んだ蓉子に暖かいマグカップを手渡す。彼女は両の手のひらでそうっと包み込むように受け取った。さも大事な、壊れやすい宝物を持つみたいに。
「理由なんて」
「え?」
「理由なんてないんだ」
マグカップを口先に運んで鼻の奥から思いきり空気を吸い込む。ブルマンのいい匂いが胸の中いっぱいに広がる。
「なんとなく今日はさぼってみようって思っただけ。今年の私は少し真面目すぎたし」
舌先に走る苦味。私はそれを目を閉じて味わう。
「蓉子にはわかんないかな、この気持ち」
我ながら幼稚な振る舞いだなぁと思う。そして何も言わない蓉子は、きっとこのつたない嘘を見抜いている。
「・・・・・・そう。雨が嫌いなのね」
ひとことそう言っただけだ。全て見透かされているのだ。だけど彼女は何も言わないから、私はいつものようについまた甘えてしまう。
「ありがとね」
「ん?」
「プリント」
「ああ・・・・・。うん、どういたしまして」
彼女は一口一口コーヒーを飲んでいる。マグを何度も傾けて。ゆっくりと。少しずつ。
「猫舌なのよ」
私がずっと見ているのに気づいた蓉子は笑った。濡れてかきあげた前髪がパサリとおでこに落ちる。


そこで気が付いた。
今自分はこの子にすごくキスがしたかったんだなぁ、って。






雨があがって彼女が帰っていったのはそれから三十分後。何を話したかは覚えてない。


静かに押し寄せたあのしとやかな高揚はなんだったのだろう?
はぜるような衝動ではなく、じわじわと湧き上がる欲望でもなく。
胸の中にただ漠然と気持ちいいような苦しさだけがあった。曖昧で、深遠で、今はもうない。
博物館でモネの絵を見るとき、空の向こうの朝焼けを見るとき、似たような感覚が胸の中にこみあげる。「好き」とか「愛しい」よりも「眩しい」とか「きれい」とか、そういった言葉が一番しっくりと来る感じ。だから今でもあの日を思い出すと、思わず目を逸らしたくなる。きっとあまりにも素敵なものを、人はじっと見ていられなくなるのだ。


これからも私はきっといろんなものに目を逸らし続ける。感情や思い出。本当に欲しいものから。
そんな不自由さが私たち人間の少し悲しいところ。そして、唯一の尊厳ある自由だ。


 〜了〜

BGM
ACIDMAN「赤橙」

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