女子更衣室の中で私はいつも異様な息苦しさを覚える。

「シュッシュッ」と、シトラスやらストロベリーやらミントやら様々な種類の制汗剤が撒き散らされ、汗のにおいとごちゃまぜになりむせ返るような湿っぽい空気に溶けていく。
甲高い笑い声とおしゃべり。
汗ばんだ下着の派手な柄と色彩。
更衣室の中には夏の熱気と十代の若さが充満している。そんな気がする。

水着に着替えながらみんなもうすぐやってくる夏休みの予定だとか、昨日見たバラエティ番組がおもしろかったとかをダラダラと着替えながら話している。私はその輪にぼんやりと加わりながら、ふと更衣室の中に聖の姿が見えないことに気が付いた。今日のプールの授業は彼女の組と合同なのに。
「ああ佐藤さん?生理で欠席らしいよ」
その一言を聞いて「ああまたか」と思う。



青空カルキ



七月の空は高くて青い。ぎらぎらと照らす太陽は目玉を焦がしそうだ。
プールサイドの上は陽の光ですっかり熱くなっていて、みんな爪先立ちでぴょんぴょんと跳ねるように歩く。
準備体操を終えてプールに入る。なまぬるい水に肌を浸すのは心地よい。熱くも冷たくもないこの中途半端な温水に長いこと浸かっていると、体の全てが溶けてどこまでも広がっていきそうな感覚を覚える。お母さんのお腹の中でもこうだったんだろうか、羊水みたいな感じがして懐かしく思えちゃうのかな。どうでもいいことをぐるぐると分析しながら仰向けでぷかっと浮いてみる。すると目の端に馴染みのある色素の薄い頭が見えた。
彼女はプールサイドに腰を下ろし、ぼんやりと遠くを見ている。「暇で暇でたまりません」といった顔だ。時々プールの中から声をかけてくる同級生には笑顔で応えるくせに、みんながあちらへ行ってしまうと、また一人でぼんやり。
どこを見てるんだろう・・・・あ、空か。七月の空。今日は雲ひとつなくてすごく晴れてていい天気だなぁ、気持ちいいけど暑いのはいやだなぁ、早く体育終らないかなぁなんて考えてるんだろうか。
口を半開きで空を見つめてる聖の顔がなんだかかわいくて思わず笑ってしまった。そしたら鼻に水が入って咳き込んで、あやうく溺れそうになった。不覚。




チャイムが鳴りプールからあがった女の子達が更衣室に吸い込まれてゆく。私と聖の二人だけを取り残して。
タオルで髪を拭きながらプールサイドを歩いてみる。急に静かになったプールにペタンペタンと濡れた足跡がやけに響いた。
「おつかれー蓉子。うお、水着姿とか超まぶしい」
聖は近づいてくる私の姿を見るなり目隠しのジェスチャーをしておどけてみせる。
「それはどうも。」
「ありゃ、不発か。もっとキャーとかバッ、バカ!みたいなツンデレな態度を君には期待していた」
「バカ」
「すんません」
聖はまた遠くを見やった。大きく口をあけてあくびをし、頭をポリポリとかいた。プールのへりに座っている聖を見下ろしながら、私は尋ねた。
「なんで」
「ん?」
「なんで休んだの、今日」
「生理中」
「嘘つき。先週の月曜、あなた私にナプキン借りにきたでしょう。とっくに終ってるくせに」
「あら、ばれた?先生には内緒ね」
聖は口の前に人差し指をあてて「しー」と口を一文字に開いた。
「プール嫌いなんて初めて聞いたわ」
「嫌いなんかじゃないんだよ」
聖は足先をそうっと水面につけた。円い波紋がぶわぶわと水面に広がっていく。
「だめなのはね、におい。カルキのにおい」
「カルキ・・・・?」
白い足はぐるぐると水をかきまわした。水面が徐々に乱れだす。
「知ってる?人間の嗅覚の中で記憶と一番直結してるのはにおいなんだって。忘れたことでもその時のにおいとかもう一度かいだら、思い出しちゃうことがあるんだって」
冷たい風が吹いた。濡れた体に肌寒い。聖の首もとのタイが風にはためいた。


「カルキのにおいは思い出す。いろんなことを思い出して悲しくなる。怖くなる。思い出したくないことも思い出しちゃいそうで」


思い出したくないこと。思い出すとつらい人。でも忘れたくないこと。忘れてはいけない人。
聖の中で彼女の存在はまだ大きな痕となって残っているのだ。
完全に乗り越えたわけじゃない。見ないふりをして、平気なふりをして、ごまかしながら生きている。そんな素振りが少しづつ本当になる。そう信じて。実に人間臭いやり方で聖はこの半年をしのいできたのだった。


「プールの補習のあと、雨に降られたことがあったんだ。温室で雨宿りしてうとうとして。世界が二人だけになればいいって、この人と同じ個体になって生きていけたらどんなに素敵だろうって、本気で考えてた。馬鹿だよね、そんなことできるわけないのに。今こうして思い出すのも話すのも恥ずかしいくらいなのに、あのころは本気でそう思ってた」


聖は笑う。
あの人のことを語る聖はいつも、泣きそうな顔で笑う。
泣いたっていいのに。苦しいって言ったっていいのに。
でも決してそうしない。

ああ、聖がもっと弱い人間だったらよかったのに。もっと誰かにすがらなきゃ生きていけない人間だったらよかったのに。


そんな彼女ならここまで一緒にいなかったろうに、心のどこかでそれを願ってしまう。そういう自分を私は一番大嫌い。


あの時の私は本当にどうかしていた。今思い出してもそう思う。激しい自己嫌悪とじれったさと嫉妬ともらい泣きの感情、それらがもう全部ごちゃまぜになって訳がわからなくなっていた。



「・・・カルキの思い出があなたを悲しくさせるのなら」



彼女の背に体を寄せ、肩に手を回す_____次の瞬間、思い切り押し出した。



「塗りつぶしてしまえばいいのよ」
「え!?」



ぶつかった水面は思ったよりもずっと硬かった。
ばっしゃーん!
重なったまま勢い良く飛び込んだプールの中に、聖と私はずぶずぶと沈んでいく。水の中は青く澄み、光の網模様がゆらゆらと反射していた。彼女は身をよじって私を突き放し、慌てて水面に上がろうとする。
行かせないように、とっさに聖のタイをつかんだ。
彼女は顔をこちらに向け、睨んだ。
私も睨みかえした。水中で目を合わせあったまま私たちはどんどん沈んでいく。
ほんのわずかな時間のことなのに。静かな静かな水中で浮遊しながら、それは永遠のことのようだった。
するり、とタイがほどけた。聖の体が私から離れる。
そして彼女は一人でみるみる上へとのぼっていった。


「カハッ、けほケホッ!」
私が水面から顔を出すと一足先に水面にあがった聖はしきりにむせていた。
「・・・・・・・・なにすんのよ!!」
「・・・怒った?」
「当たり前じゃない!」
聖は金切り声でこっぴどくどなりつける。
「死ぬかと思ったってば!ふざけないでよ!!」
憤怒する顔を見ながら、私は奇妙な安堵感に包まれた。
「・・・・・・・・じゃあ、忘れないで」
「はぁ?」
「今あなたが落っこちてびしょぬれで私に腹が立って仕方ないってこと。このプールのにおい、カルキのにおいでいつまでも覚えときなさいよ。夏が来て、カルキのにおいがするたびに思い出して。去年の思い出の代わりに」
あっけにとられたように私を見ている彼女。
「・・・・・もういろんなこと思い出して勝手に悲しくなったりなんかしないでよ・・・・」
そこまで言って、言葉に詰まってうつむいた。
そのまま二人はしばらくプールの真ん中で立ちすくんでいた。
十秒はゆうにたったろうか。聖は無言のまま、ざぶざぶとプールサイドに向かって水の中を歩き出した。私も仕方が無く聖の後について歩く。すでにプールの外に上がった聖はしゃがみこんでこちらに手を差し出した。私は彼女の手を握る。
プールサイドにあがろうと体重をかけた瞬間、つかまれた手のひらがぱっと離される。
どっぱーーん。
「ッ!?」
聖の笑い声と手を叩く音が聞こえた。手足をじたばたさせて慌てて水から顔を出す。
「お返し。」
聖は見事にひっかかった私の顔を見てにやりと笑った。
「こっちはおかげで今日一日ジャージで過ごすことになりそうだっつの。これくらいはねぇ」
そう言って彼女は一人でペタペタと歩いていってしまう。
「あー、一生忘れられない思い出になりそうだわホント」
ずぶ濡れの背中を見送りながら、その一言を聞いて、なんだか心が軽くなった気がした。






夏の夕暮れは紅い。燃えるような夕陽がめらめらと山あいの向こうに沈んでいく。
私は揺れるバスの中からそれを食い入るように眺めていた。
昼間はあんなに青かった空が紅く染まりやがて漆黒の闇になり、また朝が来て光が照らす。この大きな空は毎日毎日劇的な変化をなんなくこなしている。
私たちは日々のほんの少しの変化でひどく傷ついたり、逆にいつまでも変われなくて苦しんだりしてるのに。人間の生きる必死さなんかまるでおままごとのようだ。ちっぽけでちゃちでどうしようもない。
だけど、それでも、ほんの少し先の未来に期待して、ちょっとずつ変わっていくしかない。
そんな人間の矮小さを私はむしろ愛らしく思う。誇りに思う。
ふっと、鼻先をカルキの香りがかすめる。髪について離れないクロロカルキのにおい。このにおいをかぐたびに、聖だけじゃなく私だって今日のことを思い出すのだろう。友人の悲しげな笑顔の映像、思い切り馬鹿なことをした恥ずかしさを伴って。

じっと手のひらを見た。
まだ残る握ったタイのほどける感触。
プールの底に沈んでいく時、どうして私は聖を離そうとしなかったのだろう?
いっそ溺れてしまいたかったのか。
二人で墜ちるところまで墜ちてしまえることを望んでいたのか。





いや、考えるのはよそう。
だってそう決め付けてしまったら。私の今日の行動は自分のおもちゃをとられたくないとごねる子どものような、ただの幼稚なわがままになってしまう。友達を助けたいとか、馬鹿をあえてやってみたとか、そんなの全部いい訳になる。
ごまかしてしまおう、あの子のように。
目を閉じた。泳ぎ疲れた体はすでに鉛のように重い。すぐに眠気がじわじわと意識に手を伸ばしてくる。
カルキのにおいに包まれながら私はバスシートに深く身を委ねきっていた。
停留所はあと六つ。あと少し、怠惰な眠りを貪ろう。バスを降りるその時まで。



 〜了〜

BGM
畠山美由紀「若葉の頃や」

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